The PEN Ten is PEN America’s weekly interview series. This week, Viviane Eng speaks with Keiichiro Hirano, author of At the End of the Matinee (Amazon Crossing, 2021), translated from Japanese to English by Eli K.P. William.

 

Keiichiro Hirano headshot

Photo by Ogata Photo

1. 子どもの頃一番好きだった本を読む場所はどこですか?
自室です。

2. 執筆中にどんな本を読みますか?(または、読みませんか?)
資料として必要な本ですが、それとは無関係な本もたくさん読みます。あとは、純粋な楽しみとして詩集も。『マチネの終わりに』では、リルケの『ドゥイノの悲歌』が大きなインスピレーションになりました。

3. 「マチネの終わりに」のプロローグでは、「人間には、虚構のお陰で書かずに済ませられる秘密がある一方で、虚構をまとわせることでしか書けない秘密もある」と書かれています。平野さんは作品の中で真実をどのように扱っていますか? 真実とフィクションの関係について、お話しいただけますか?
僕はフィクションについて考える時には、真実よりも「現実」という言葉の方を好みます。

フィクションが求められるのは、現実がそれを要求するからです。つまり、今起きていることは、より純化された形で人々と共有されるべきだと、現実が自ら僕に訴えかけてきますし、語り得ない私的な体験が、フィクションの外皮に保護されることで、ようやく人目に触れることが出来る、ということもあります。現実の物足りなさが、フィクションに満たされたがっている、ということもあるでしょう。現実に生きることの疲弊が、フィクションによる解放を促すこともあります。


“僕はフィクションについて考える時には、真実よりも「現実」という言葉の方を好みます。フィクションが求められるのは、現実がそれを要求するからです。”


4. 執筆中の習慣で、年齢とともに変化したものはありますか?
小説家になった頃は、夜でないと書けないとか、書いている時に他の人の作品を読むと文体に影響されてしまうので読まない、といった様々な条件がありましたが、次第に、どんな状況でも、何を同時にしていても、集中して執筆できるようになりました。この仕事自体に慣れてきたということもありますし、家事や子育てという現実の側からの要請でもあります。

5. 執筆中、どんな時にフラストレーションを感じますか? そして、どうやって乗り越えますか?
書くこと自体のストレスはまったくありません。行き詰まりを感じたこともないです。ただ、小説以外にも対談をしたり、新聞や雑誌のインタヴューを受けたり、講演を依頼されたり、政治や社会についての記事を書いたりと、日常的に忙しく、小説執筆の時間が十分に確保されない時には、非常にフラストレーションを感じます。

6. 平野さんにとって場所と小説の関係とは何ですか? また、繰り返し小説の舞台になっている場所はありますか?
僕の小説は、中世末期の南フランスから、19世紀のパリ、明治時代の奈良県の山奥、未来のヒューストン郊外から東京、更には火星や仮想空間まで、作品の主題に応じて常に変化しています。物語にとって必然性のある場所を厳密に考え、執筆前にはかなり取材しますが、実際に住んだり訪れたりした場所の方が、やはり多いです。当然ですが、今住んでいる日本の東京は、よく舞台になります。

7. どうして私たちは物語が必要なのだと思いますか?
この狂った世界の中で、正気を保つためです。

At The End Of The Matinee book cover8. 多くのフィクション作家は、現実を参考にしてキャラクターやプロットをつくりますが、そのことに物語の中で必ずしも触れるわけではありません。蒔野と洋子の物語が、あなたの知っている人たちの「実話」に基づいていることを、読者に知らせる必要があると感じたのはなぜですか?
18世紀から20世紀半ば頃までに書かれた優れた小説の「序文」の機能に注目していました。『ロビンソン・クルーソー』や『カラマーゾフの兄弟』、『魔の山』、『嘔吐』、……と、いずれも、主人公について、彼らが注目に値する人物であることを予め説明する魅力的な序文を備えています。そのお陰で、著者は飽きっぽい読者の関心を惹こうと、いきなり物語を「面白くしよう」と焦る必要がなく、ゆっくり静かに語り出すことが出来ます。その際、更に主人公の実在を伝えておくと、作者と読者とは、作者が差し出した主人公を読者が受け止める、といった具合に、主人公を間に挟んで両者が向き合うのではなく、隣り合って同じ視線の先に主人公を見ることが出来ます。

主人公を肯定的に描写しようとする時、読者は、完全なフィクションであるならば、「彼/彼女は美しく、才能がある。」という言葉を、作為的なものとして警戒しますが、実在する人物に基づくのであれば、客観的な描写として受け容れられます。たとえ、本当に実在するかどうかは不確かであっても。『マチネの終わりに』を書く時に具体的にインスピレーションを得たのは、マルグリット・ユルスナールの『とどめの一撃』でした。


“魅力的な文体で、魂を揺さぶるような表現に溢れ、登場人物達が、現実に接する人々よりも魅力的で、描かれた世界が現実よりも大きな精神的高揚感を与えてくれる時、僕はその本を読み終わるのが惜しいと感じます。。。。作品が一つの強烈な「体験」だからでしょう。”


また、そうした古い時代には、メタフィクションによってフィクションのフィクション性が告発された時代とは違った、フィクションがフィクションであることの自明性があり、私はそれが、現代のようにソーシャル・メディア上に作家の日常的な姿が現前している状況と、むしろ近いと感じています。しかし、これについて話し出すと長くなるので、また別の機会に。

9. 以前から、「ページをめくる手が止まらなくなるような小説ではなく、次のページをめくりたいような、めくりたくないような、ずっとその世界に浸っていたいような小説を書きたい」とおっしゃっていました。あなたにとって、この2つのタイプの小説の具体的な違いは何ですか? また、最近読んだ本の中で、いつまでもその世界に浸っていたいと思えるような作品はありますか?
魅力的な文体で、魂を揺さぶるような表現に溢れ、登場人物達が、現実に接する人々よりも魅力的で、描かれた世界が現実よりも大きな精神的高揚感を与えてくれる時、僕はその本を読み終わるのが惜しいと感じます。『罪と罰』や『ブッデンブローク家の人びと』などは、長い長い作品ですが、初読の際、読み終わってしまうのが本当に残念でした。作品が一つの強烈な「体験」だからでしょう。

夢中になってページを捲りたくなる、ということも重要な本の魅力ですが、あまりにテクニカルにそのことが目的化した本には虚しさがあります。

最近では、ハン・ガンさんの小説を読んでいる時に、そうした喜びを感じました。


“小説全体の流れとしては、音楽的に考えます。やはり時間芸術ですので。その中で、旋律とハーモニー、転調や楽章の変化などに擬えることが、継起的な構造の変化とバランスをイメージさせてくれます。”


10. 洋子と蒔野が強く惹かれあったことを印象づける要素のひとつに、二人の対話があります。特に印象的だったのは、この世の美についての初期の会話です。蒔野は、暴力的な映画の中で「恐怖」を容認するなど、「美」は「厄介な仕事をずっと担わされてきて、もうくたびれ果ててるんじゃないかと思うことがある」と言います。一方、洋子は、美は「この世界の悲惨さから、束の間、目を背けさせてくれる力もある」と別の見方をしています。ロマンチックな愛のように激しくて気まぐれなものを書くとき、より美しい瞬間とより重い瞬間をどのようにバランスよく描くのでしょうか?また、そのバランスをとるためには、どのような台詞が必要でしょうか。
音楽や絵画が参考になります。小説全体の流れとしては、音楽的に考えます。やはり時間芸術ですので。その中で、旋律とハーモニー、転調や楽章の変化などに擬えることが、継起的な構造の変化とバランスをイメージさせてくれます。しかし、具体的に各場面を描く時には、むしろ絵画的に、前景と背景のバランスを考えます。何をこの場面では前景として大きく明瞭に扱い、何を背景として遠ざけつつ、広がりを持たせるか。

『マチネの終わりに』のような美しい愛の物語が今必要であるのは、世界が直面している現実が、それだけ困難だからでしょう。